俺は正直参ってしまっていた。
辛うじて自分の形が見える程の暗闇の中に自分しかいない。
喉はいがいがとして気持ち悪いが、うがいをする水はない。
時間を調べる術もないので、いったい今が何時なのかすらわからない。
立って手をのばせば届く高さの天井。
コンクリートの狭い通路に、俺は膝を抱えて座っている。
こんなところにもう何時間いるんだろう。
時間の過ぎ去る感覚の鈍くなる暗闇の中で、それは計り知れなかった。
左手をそっと壁に当てると、冷たい鉄の感触だけが伝わってきた。
俺がいつだったかここに入ってきた扉だ。
本当にいつだったかわからない気分だ。
そう、俺はこの扉を開けてここに入ってきた。
野球場横にあるトイレの中には、前々から立ち入り禁止の看板が掛けられている個室があった。
中を覗いてみてもただ掃除用具が入れてあるだけの何の変哲もない場所に、たまたま俺が隠されたような扉を見つけたのはこの間の事だった。
昔から探検ごっこや防空壕なんかに入るのが好きだった俺が、それに興味をそそられてしまったのは仕方のない事だと思う。
そして俺は抑えられない好奇心に駆られて、その扉を開いてしまったんだ。
扉の下の方には拳で握れる程度の取っ手がついていた。
引き寄せるように力を込めると、ガッと鉄の擦れるような音と一緒に取っ手が一段引き出てきた。
そのまま引き寄せると扉は、鉄の軋む音を立ててその暗い口を開いていった。
これがなかなかに重い。
右手で支えながら、目を凝らして闇を見つめるが何も見えない。
そこで引き返せばよかったものを、用意していた懐中電灯を手に俺は一歩を踏み出してしまったんだ。
差し込む明かりの向こうには、ずっと同じような通路しか見えなかった。
右手をそっと離すと、扉はそのものの自重でゆっくりと閉まろうとしていた。
それを見届ける事もなく、俺は前方に注意を向ける。
ガチンという金属音とともに外からの光も消え、手元の灯りだけが俺の前方を照らすものとなった。
通路は腰を屈めなくてもいい程度の高さはあるものの、人一人が通れる程度の幅しかない。
軽く前方に下るような傾斜になっているらしく、奥の奥まで見渡せないで先のほうの地面の部分だけが見えた。
一体何のために学校内にこんな通路があるんだろうか。
そんな事を考えながら、俺は奥へ奥へと足を向け始めた。
途中傾斜が下りから、上りへと変化した。
そこで前方に光を向けると、出口らしい扉が目に入ってきた。
今度は普通にノブが付いている木製の扉だ。
引いてみる、開かない。
押してみる、開いた。
まず最初に目に飛び込んできたのは、薄汚れたでかいベッドだった。
元は白かっただろうシーツは、虫に食われてボロボロになってしまっている。
壁はさっきまでの通路と同じようなコンクリートの打ちっぱなしで、床にはこれも薄汚れた赤いカーペットがひいてある。
天井には大きめの照明、蛍光灯はついていなかった。
入り口近くにはそれのものと思われるスイッチ。
つくわけはないんだけれども、何となくスイッチを切り替えてしまう。
目につくものは、それ以外何もないようだった。
ふと明かりに照らされた天井の片隅に、四角い穴が開いているのに気付いた。
近寄って中を覗き込んでみると、鉄製の梯子が備え付けてある。
ものは試しに登ってみたが、出口はなかった。
網目のような格子の上をコンクリートで完全に塞がれていたんだ。
誰かが故意に埋めたという感じだった。
そうなるとそれだけの空間だった。
梯子を下り、ざっと部屋を見回してみる。
昔はどこかに繋がっていたんだろうが、今は何にも使われていない場所。
俺には何に使われていたのかわからないが、こうやって潰されたり隠されたりしているところを見る限り、きっとろくな使い方はされていないんだろうと思う。
俺は秘密を制覇したような高揚感を抱えていた。
廃屋にしろ、洞窟にしろ、防空壕にしろ、この制圧感が何よりも堪らない。
ただ、一度制してしまうともう興味があるわけでもなかった。
よし戻ろう。
あとする事と言ったらそれだけだった。
埋められてしまったところからは出られるはずもなく、戻るしか道はない。
再び傾斜を軽く下り上りし、出口のはずの扉を押すが何故か開かなかった。
肩を押し当てるようにしてやってみるが、開かない。
俺は閉じ込められた事にその時、ようやく気付いた。
そしてそれからどの位経ったか、今に至る。
一人暗闇の中で膝を抱えている。
出られない。
馬鹿げた話だ。
考えられた話なのに、興奮でそれを気付けなかった。
その扉は片開きだったんだ。
押して駄目だったという事は、何らかのロックがかかっているって事なんだろう。
(くそっ)
鈍い金属音が叩きつけた拳から響く。
まさかこんな事になるとは思わなかった。
慣れが油断を招いたとしか言えない。
叫び続けた声はかれてしまって、もう声を出す気力も沸かない。
腹は減ったし喉も渇いた。
唯一の光だった懐中電灯は、さっき電池切れを起こしてしまった。
こんな事ならちゃんと新しいものを持ってくればよかった。
そう思っても、今更仕方がない。
全部仕方がないんだ。
俺はこのままなんだろうか。
何時間も見つめ続けてきた深い暗闇は俺にそう考えさせてくる。
俺はずっとここに居続けるんだろうか。
自分の手も見えない闇は何も答えてくれない。
嫌だ。
もう暗いのは嫌だ。
こんなところにいたくない。
誰か出してくれ。
「俺をここから出してくれッ」
気付くと俺はかれた声で喚き叫び続けながら、鉄の扉を叩き続けた。
涙も鼻水も溢れ出してくる。
分厚い扉はびくともしない。
「出せッ出してくれッ」
「もうこんな所にいたくないッ」
「暗闇なんかくそくらえだッ!」
叩きつけた拳は痛んでしまっているようだったが、そんな傷も気にならなかった。
とにかくじっとしていられなかった。
叫び続けていないと気が狂いそうだった。
「誰か出せッ!」
「誰でもいいッ!」
「早くッ!」
「俺が壊れちまうッ!」
「出せぇぇぇぇえええッ!!」
不意に扉からガッいう音が響いた。
俺は拳を打ちつけるのを忘れて、扉を食い入るようにじっと見つめた。
鈍い金属の擦れあう音がし、光が足元からあふれ出す。
「あああぁぁぁ」
喉から搾りだすように声が漏れた。
涙は止まらなかった。
俺は助かったんだ、俺は助かったんだ、俺は助かったんだ。
ただひたすら、まぶしい光に目を細めるのも忘れて俺は涎を垂らしていた。
拳からは血が滲み、傷口からもそれ以外の場所からもじんじんと断続的な痛みを感じる。
一歩踏み出そうとして歩けない自分に気がついた。
安心して腰が抜けたらしい。
崩れた膝もそのままに、仕方がないので外に立っている誰かに目を向けた。
扉を開いたそいつの顔は、涙に滲んでいるのも光が眩しすぎるのも逆光になっているのもあって見えない。
さしだしてくれた手に、俺はゆっくりと手を伸ばした。
俺は助かったんだ。
そんな実感と光が俺を包み込んだ。
辛うじて自分の形が見える程の暗闇の中に自分しかいない。
喉はいがいがとして気持ち悪いが、うがいをする水はない。
時間を調べる術もないので、いったい今が何時なのかすらわからない。
立って手をのばせば届く高さの天井。
コンクリートの狭い通路に、俺は膝を抱えて座っている。
こんなところにもう何時間いるんだろう。
時間の過ぎ去る感覚の鈍くなる暗闇の中で、それは計り知れなかった。
左手をそっと壁に当てると、冷たい鉄の感触だけが伝わってきた。
俺がいつだったかここに入ってきた扉だ。
本当にいつだったかわからない気分だ。
そう、俺はこの扉を開けてここに入ってきた。
野球場横にあるトイレの中には、前々から立ち入り禁止の看板が掛けられている個室があった。
中を覗いてみてもただ掃除用具が入れてあるだけの何の変哲もない場所に、たまたま俺が隠されたような扉を見つけたのはこの間の事だった。
昔から探検ごっこや防空壕なんかに入るのが好きだった俺が、それに興味をそそられてしまったのは仕方のない事だと思う。
そして俺は抑えられない好奇心に駆られて、その扉を開いてしまったんだ。
扉の下の方には拳で握れる程度の取っ手がついていた。
引き寄せるように力を込めると、ガッと鉄の擦れるような音と一緒に取っ手が一段引き出てきた。
そのまま引き寄せると扉は、鉄の軋む音を立ててその暗い口を開いていった。
これがなかなかに重い。
右手で支えながら、目を凝らして闇を見つめるが何も見えない。
そこで引き返せばよかったものを、用意していた懐中電灯を手に俺は一歩を踏み出してしまったんだ。
差し込む明かりの向こうには、ずっと同じような通路しか見えなかった。
右手をそっと離すと、扉はそのものの自重でゆっくりと閉まろうとしていた。
それを見届ける事もなく、俺は前方に注意を向ける。
ガチンという金属音とともに外からの光も消え、手元の灯りだけが俺の前方を照らすものとなった。
通路は腰を屈めなくてもいい程度の高さはあるものの、人一人が通れる程度の幅しかない。
軽く前方に下るような傾斜になっているらしく、奥の奥まで見渡せないで先のほうの地面の部分だけが見えた。
一体何のために学校内にこんな通路があるんだろうか。
そんな事を考えながら、俺は奥へ奥へと足を向け始めた。
途中傾斜が下りから、上りへと変化した。
そこで前方に光を向けると、出口らしい扉が目に入ってきた。
今度は普通にノブが付いている木製の扉だ。
引いてみる、開かない。
押してみる、開いた。
まず最初に目に飛び込んできたのは、薄汚れたでかいベッドだった。
元は白かっただろうシーツは、虫に食われてボロボロになってしまっている。
壁はさっきまでの通路と同じようなコンクリートの打ちっぱなしで、床にはこれも薄汚れた赤いカーペットがひいてある。
天井には大きめの照明、蛍光灯はついていなかった。
入り口近くにはそれのものと思われるスイッチ。
つくわけはないんだけれども、何となくスイッチを切り替えてしまう。
目につくものは、それ以外何もないようだった。
ふと明かりに照らされた天井の片隅に、四角い穴が開いているのに気付いた。
近寄って中を覗き込んでみると、鉄製の梯子が備え付けてある。
ものは試しに登ってみたが、出口はなかった。
網目のような格子の上をコンクリートで完全に塞がれていたんだ。
誰かが故意に埋めたという感じだった。
そうなるとそれだけの空間だった。
梯子を下り、ざっと部屋を見回してみる。
昔はどこかに繋がっていたんだろうが、今は何にも使われていない場所。
俺には何に使われていたのかわからないが、こうやって潰されたり隠されたりしているところを見る限り、きっとろくな使い方はされていないんだろうと思う。
俺は秘密を制覇したような高揚感を抱えていた。
廃屋にしろ、洞窟にしろ、防空壕にしろ、この制圧感が何よりも堪らない。
ただ、一度制してしまうともう興味があるわけでもなかった。
よし戻ろう。
あとする事と言ったらそれだけだった。
埋められてしまったところからは出られるはずもなく、戻るしか道はない。
再び傾斜を軽く下り上りし、出口のはずの扉を押すが何故か開かなかった。
肩を押し当てるようにしてやってみるが、開かない。
俺は閉じ込められた事にその時、ようやく気付いた。
そしてそれからどの位経ったか、今に至る。
一人暗闇の中で膝を抱えている。
出られない。
馬鹿げた話だ。
考えられた話なのに、興奮でそれを気付けなかった。
その扉は片開きだったんだ。
押して駄目だったという事は、何らかのロックがかかっているって事なんだろう。
(くそっ)
鈍い金属音が叩きつけた拳から響く。
まさかこんな事になるとは思わなかった。
慣れが油断を招いたとしか言えない。
叫び続けた声はかれてしまって、もう声を出す気力も沸かない。
腹は減ったし喉も渇いた。
唯一の光だった懐中電灯は、さっき電池切れを起こしてしまった。
こんな事ならちゃんと新しいものを持ってくればよかった。
そう思っても、今更仕方がない。
全部仕方がないんだ。
俺はこのままなんだろうか。
何時間も見つめ続けてきた深い暗闇は俺にそう考えさせてくる。
俺はずっとここに居続けるんだろうか。
自分の手も見えない闇は何も答えてくれない。
嫌だ。
もう暗いのは嫌だ。
こんなところにいたくない。
誰か出してくれ。
「俺をここから出してくれッ」
気付くと俺はかれた声で喚き叫び続けながら、鉄の扉を叩き続けた。
涙も鼻水も溢れ出してくる。
分厚い扉はびくともしない。
「出せッ出してくれッ」
「もうこんな所にいたくないッ」
「暗闇なんかくそくらえだッ!」
叩きつけた拳は痛んでしまっているようだったが、そんな傷も気にならなかった。
とにかくじっとしていられなかった。
叫び続けていないと気が狂いそうだった。
「誰か出せッ!」
「誰でもいいッ!」
「早くッ!」
「俺が壊れちまうッ!」
「出せぇぇぇぇえええッ!!」
不意に扉からガッいう音が響いた。
俺は拳を打ちつけるのを忘れて、扉を食い入るようにじっと見つめた。
鈍い金属の擦れあう音がし、光が足元からあふれ出す。
「あああぁぁぁ」
喉から搾りだすように声が漏れた。
涙は止まらなかった。
俺は助かったんだ、俺は助かったんだ、俺は助かったんだ。
ただひたすら、まぶしい光に目を細めるのも忘れて俺は涎を垂らしていた。
拳からは血が滲み、傷口からもそれ以外の場所からもじんじんと断続的な痛みを感じる。
一歩踏み出そうとして歩けない自分に気がついた。
安心して腰が抜けたらしい。
崩れた膝もそのままに、仕方がないので外に立っている誰かに目を向けた。
扉を開いたそいつの顔は、涙に滲んでいるのも光が眩しすぎるのも逆光になっているのもあって見えない。
さしだしてくれた手に、俺はゆっくりと手を伸ばした。
俺は助かったんだ。
そんな実感と光が俺を包み込んだ。
前々から変だとは思っていた。
グラウンドの隣に併設する形で造られた、造りも立派な野球場。
ご丁寧にバックネットまで設置されている。
そのくせ、ナイター設備用の照明はない。
入り口も大きく迂回して回りこまないと入れないようになっていて、気軽に使えるように作ったとは言えない。
これを設計した人はどう考えても、利用しやすいように計画したとは思えないのだ。
加えて更に変なのは、これを継続的に利用する者が桜聖にはいない事だった。
つまり、うちの学園には野球部もソフト部も存在しないのだ。
これは皆沢に聞いてみないとわからない事だけれど、今までそういう部があったという話も聞かない上に、部を立ち上げようとした愛好家の集まりも理事会から許可が下りないという事で部を設立する事ができなかったという話を聞いた事がある。
理事長が大の野球嫌いだとか、色々な憶測は絶えないけれども、つまりはそういう事。
そんなある種変わった学園に、何故か見てくれだけは立派な野球場があるとなると、違和感を感じても仕方がないと思う。
そしてわたしは今、その妙な場所の傍に立っている。
まだ運動部が活動している声が聞こえてくるも、大きめの野球場をまたいで向こう側とあってその音も寂しく感じる。
例の場所はその入り口近く、もし野球場を使うなら使うだろうという場所に造られていた。
造られてからどの位経つのかはわからないけれども、殆ど未使用な上に生徒もめったに立ち寄らないにもかかわらず外装は結構ボロボロ。
女子トイレ側に貼ってあっただろう、マークのタイルも剥がれて地面に落ちてしまっている。
話が本当なら、呻き声のようなものは男子トイレの中から聞こえてくるという事だ。
“ぅぅ〜”
わたしはスカートを押さえ、思わず周りを見回した。
日は傾きかけて赤い世界が侵食し始めている。
当然人影はない。
そして、確かに微かながらわたしの耳には声が聞こえた。
「………ふむ」
ここに来るまでは単なる作り話か大袈裟な怪談としか思っていなかったので、わたしは思わず口に手を当てて唸っていた。
皆沢の代わりに男子トイレを調べてあげて、何もないという事を証明してやろうと思っていただけ。
本気で中に入ったら出てこれないとか、呻き声が聞こえるなんてものを信じてなどいなかった。
でも聞こえた。
“ぅぅ〜ぅ”
木々がざわめく。
ほら、もう一度。
周りに気を配っていたので、今度は確かに聞こえた。
聞き間違いではない。
音源は確かじゃないけれども、心なしか目の前のトイレの中から聞こえている気がする。
少し乱れた前髪を右手で直しつつ、わたしはにやりと笑みを浮かべた。
「………面白くなってきたじゃないの」
わたしの今知っている限り、ないものから音が発せられる事はない。
つまり音があるという事は、音を発しているものがあるという事だ。
ポルターガイスト現象でラップ音と呼ばれているものの90%以上が、水道管の圧力変化によるウォーターハンマー現象や家屋に使われている木材などの乾燥具合なんかで起きているという。
ただそれはそういう現象で証明できるというだけで、それが本当かどうかというのは結局はそれを判断する人に委ねられる。
幽霊の起こしているものと信じる人もいれば、わたしのように信じないやつもいる。
それでいいじゃないかと思う。
夕里のようなのをわたしは否定しようとは思わない。
ただ自分では判断のつかないものを、すべて幽霊のせいにして妄信するのはあまりに馬鹿げているし、わたしはそういう自分でありたくないと思っている。
原因があるなら調べる。
わからないならわからないで、そのうちわかる事もあるだろうと。
わたしはそう思っているだけ。
眼鏡の位置をくいと直し、わたしは何の躊躇もなく禁断の領域に足を踏み入れた。
入り口を一歩入ったところで、立ち止まりわたしは中をぐるっと見回した。
そう広いとも言えない内部。
外装に比べると幾分ましとは言えるけれども、どことなくやはり薄汚れたような印象を受ける。
正面の壁側、上の方には小さな換気用も兼ねた窓。
向かって左手には、見慣れない小さい方用の便器が奥に二つと、手前に洗面台、その上には大きめの鏡がある。
長く使われた様子のない洗面台、蛇口を捻ってみると濁った茶色い水が流れ出し、しばらくすると普通の透き通ったものになった。
水道管が錆びているらしい、使う気もなかったのでそのまま捻り返して止めておいた。
鏡は汚れで曇りきって、写っているわたしの顔さえ見にくいといった感じだ。
右手には個室が3個程並んでいる。
目につくのは、やはり一番手前にある個室のドア。
その前の床、わたしの足元には木製の札が落ちている。
書かれていたらしい文字は微かに判別ができるという程度にまで、ペンキが剥がれてしまっていたがこう書かれていたようだ。
『立ち入り禁止』
わたしはコンと奥のほうにその板を蹴ると、個室のドアを押した。
埃っぽいようなカビっぽいような臭いに襲われ、わたしは袖口で口と鼻を覆った。
そこは掃除用具入れに使われていた場所のようで、中にはいつ使ったのかも知れない埃をかぶったトイレ掃除用の道具類が煩雑に入れられている。
一歩踏み出した足の裏から、パキンとガラスを踏んだような音がした。
足を上げてみると、細かい透明な破片が散らばっている。
上を見てみると何故か備え付けの蛍光灯の他に、掃除道具入れ用の電灯があり、その蛍光灯が落ちて割れているようだった。
少し首を伸ばしてみて、隣の個室の天井を見てみる。
しかし専用の電灯が付けられているのは、この掃除道具入れだけのようだ。
「ゥウぉぉ」
篭ったような音が不意に個室内に響き渡った。
外で聞いたものよりも明らかに近い。
やはり中から響いていたようだ。
どこから聞こえてきたのかまでは、はっきりとはわからなかったけれども、見回すうちにあるものに気付いた。
ドアの死角になる個室の右手側が広く取られていてそこに小さめの扉があったのだ。
掃除道具を取るだけでは気付かない、中に入ってドアを閉めないとわからないように、その扉は備え付けてあったようだ。
錆びの浮いた分厚い鉄板が、こちらからも見て取れる。
「ゥウぉぉぉン」
さっきと同じ音がまた響いた。
今度こそ間違いない、その中から聞こえてきている。
わたしは散らばる破片を踏み越えて、その穴に近づいて行った。
グラウンドの隣に併設する形で造られた、造りも立派な野球場。
ご丁寧にバックネットまで設置されている。
そのくせ、ナイター設備用の照明はない。
入り口も大きく迂回して回りこまないと入れないようになっていて、気軽に使えるように作ったとは言えない。
これを設計した人はどう考えても、利用しやすいように計画したとは思えないのだ。
加えて更に変なのは、これを継続的に利用する者が桜聖にはいない事だった。
つまり、うちの学園には野球部もソフト部も存在しないのだ。
これは皆沢に聞いてみないとわからない事だけれど、今までそういう部があったという話も聞かない上に、部を立ち上げようとした愛好家の集まりも理事会から許可が下りないという事で部を設立する事ができなかったという話を聞いた事がある。
理事長が大の野球嫌いだとか、色々な憶測は絶えないけれども、つまりはそういう事。
そんなある種変わった学園に、何故か見てくれだけは立派な野球場があるとなると、違和感を感じても仕方がないと思う。
そしてわたしは今、その妙な場所の傍に立っている。
まだ運動部が活動している声が聞こえてくるも、大きめの野球場をまたいで向こう側とあってその音も寂しく感じる。
例の場所はその入り口近く、もし野球場を使うなら使うだろうという場所に造られていた。
造られてからどの位経つのかはわからないけれども、殆ど未使用な上に生徒もめったに立ち寄らないにもかかわらず外装は結構ボロボロ。
女子トイレ側に貼ってあっただろう、マークのタイルも剥がれて地面に落ちてしまっている。
話が本当なら、呻き声のようなものは男子トイレの中から聞こえてくるという事だ。
“ぅぅ〜”
わたしはスカートを押さえ、思わず周りを見回した。
日は傾きかけて赤い世界が侵食し始めている。
当然人影はない。
そして、確かに微かながらわたしの耳には声が聞こえた。
「………ふむ」
ここに来るまでは単なる作り話か大袈裟な怪談としか思っていなかったので、わたしは思わず口に手を当てて唸っていた。
皆沢の代わりに男子トイレを調べてあげて、何もないという事を証明してやろうと思っていただけ。
本気で中に入ったら出てこれないとか、呻き声が聞こえるなんてものを信じてなどいなかった。
でも聞こえた。
“ぅぅ〜ぅ”
木々がざわめく。
ほら、もう一度。
周りに気を配っていたので、今度は確かに聞こえた。
聞き間違いではない。
音源は確かじゃないけれども、心なしか目の前のトイレの中から聞こえている気がする。
少し乱れた前髪を右手で直しつつ、わたしはにやりと笑みを浮かべた。
「………面白くなってきたじゃないの」
わたしの今知っている限り、ないものから音が発せられる事はない。
つまり音があるという事は、音を発しているものがあるという事だ。
ポルターガイスト現象でラップ音と呼ばれているものの90%以上が、水道管の圧力変化によるウォーターハンマー現象や家屋に使われている木材などの乾燥具合なんかで起きているという。
ただそれはそういう現象で証明できるというだけで、それが本当かどうかというのは結局はそれを判断する人に委ねられる。
幽霊の起こしているものと信じる人もいれば、わたしのように信じないやつもいる。
それでいいじゃないかと思う。
夕里のようなのをわたしは否定しようとは思わない。
ただ自分では判断のつかないものを、すべて幽霊のせいにして妄信するのはあまりに馬鹿げているし、わたしはそういう自分でありたくないと思っている。
原因があるなら調べる。
わからないならわからないで、そのうちわかる事もあるだろうと。
わたしはそう思っているだけ。
眼鏡の位置をくいと直し、わたしは何の躊躇もなく禁断の領域に足を踏み入れた。
入り口を一歩入ったところで、立ち止まりわたしは中をぐるっと見回した。
そう広いとも言えない内部。
外装に比べると幾分ましとは言えるけれども、どことなくやはり薄汚れたような印象を受ける。
正面の壁側、上の方には小さな換気用も兼ねた窓。
向かって左手には、見慣れない小さい方用の便器が奥に二つと、手前に洗面台、その上には大きめの鏡がある。
長く使われた様子のない洗面台、蛇口を捻ってみると濁った茶色い水が流れ出し、しばらくすると普通の透き通ったものになった。
水道管が錆びているらしい、使う気もなかったのでそのまま捻り返して止めておいた。
鏡は汚れで曇りきって、写っているわたしの顔さえ見にくいといった感じだ。
右手には個室が3個程並んでいる。
目につくのは、やはり一番手前にある個室のドア。
その前の床、わたしの足元には木製の札が落ちている。
書かれていたらしい文字は微かに判別ができるという程度にまで、ペンキが剥がれてしまっていたがこう書かれていたようだ。
『立ち入り禁止』
わたしはコンと奥のほうにその板を蹴ると、個室のドアを押した。
埃っぽいようなカビっぽいような臭いに襲われ、わたしは袖口で口と鼻を覆った。
そこは掃除用具入れに使われていた場所のようで、中にはいつ使ったのかも知れない埃をかぶったトイレ掃除用の道具類が煩雑に入れられている。
一歩踏み出した足の裏から、パキンとガラスを踏んだような音がした。
足を上げてみると、細かい透明な破片が散らばっている。
上を見てみると何故か備え付けの蛍光灯の他に、掃除道具入れ用の電灯があり、その蛍光灯が落ちて割れているようだった。
少し首を伸ばしてみて、隣の個室の天井を見てみる。
しかし専用の電灯が付けられているのは、この掃除道具入れだけのようだ。
「ゥウぉぉ」
篭ったような音が不意に個室内に響き渡った。
外で聞いたものよりも明らかに近い。
やはり中から響いていたようだ。
どこから聞こえてきたのかまでは、はっきりとはわからなかったけれども、見回すうちにあるものに気付いた。
ドアの死角になる個室の右手側が広く取られていてそこに小さめの扉があったのだ。
掃除道具を取るだけでは気付かない、中に入ってドアを閉めないとわからないように、その扉は備え付けてあったようだ。
錆びの浮いた分厚い鉄板が、こちらからも見て取れる。
「ゥウぉぉぉン」
さっきと同じ音がまた響いた。
今度こそ間違いない、その中から聞こえてきている。
わたしは散らばる破片を踏み越えて、その穴に近づいて行った。
放課後の教室に私と千はいる。
部活動参加自体が、一つの内申点になる桜聖では、放課後に教室にいる生徒は少ない。
今日は部活が休みなのか、珍しく数人の他の生徒も居残っている。
「そうそう聞いた?ほら、あの話の男子トイレ。さっきあそこに行った子がいたんだって」
「聞いた聞いたー。怖いものみたさ?ばっかよねー私らでも近づかないのにね、あそこ」
「そうそう。さわらぬ神に祟りなしってやつ?嘘っぱちならまだしも、本物じゃんねあれは。やーだやだ」
そんな会話が飛び交っている。
禁忌と呼ばれているあの場所に入ったっていうなら、確かに話題に上がってもおかしくない。
私もあそこには入ろうとは思えないし、入ったらどんな目でみられるかわからない。
だから中の様子なんかも、実際には見た事がない。
私たちにとっては馴染みさえない場所なんだから。
そんな事を考えながらも、千との会話に戻る。
「心霊スポットってあるよね。よく肝試しとかで馬鹿な連中が遊びに行ったりするけど、あれ止めた方がいい。なぜなら、心霊スポットは危険だから」
前の席に座っている千は、本に目を通しながらボソボソと喋っている。
当たり前の事を言われたので、私はコクコクとうなずくしかなかった。
「なぜ危険なのか?普通なら幽霊が出るからと言うところなんだけれど、本当はもう一歩踏み込まないといけないのよ。例えばある交差点。見通しが比較的いい場所なのに、雨が降ると何故か事故が多発する。そして出てくる幽霊の目撃証言ときっかけになったような、女性の自殺事件。よくありがちな心霊スポットの話でしょ?」
私はまた少し頷いた。
見ているのか見ていないのか、千は一息ついて静かに続ける。
「人の身体に含まれている油脂分って、これアスファルトに染み込むとなかなか取れないのよ。目が粗いからね。そして、脂はこれ滑るのよ、当然ね。言いたい事わかるかしら。雨が降ると、アスファルトの奥にあった油脂分が浮き出てきて、次の被害者を生むのよ。スリップ事故としてね。幽霊でもなんでもない、物理的に事故は多発してたってわけ。もちろんきっかけとしては、最初の自殺者がいたからなんだけど」
カタンと少し椅子を動かして、居座りを直す。
「視覚的に平衡感覚を失いやすい崖なんかもあるわね。これらはつまり物理的に危険を持っている場所ってやつ。もちろんそれだけじゃない。大昔から忌むべき場所とされているところもあるしね。でも本当に一番怖いのは、理由があってそういう場所と定めたところかもしれないわね」
「そういう場所と定めたところ?ここは心霊スポットですよって決めるって事?」
よくわからなくて私は聞き返した。
「うん、そうねつまり、本来は何でもない場所を何かの理由でもって立ち入らせたくないけれども、表立ってそれを言えない理由があるから、心霊スポットというカモフラージュで巧妙に人を遠ざけている場所のこと」
「…ううん、よくわからない」
千は本のページを抑えていた右手で眼鏡の位置を直すと、小さく笑った。
「そうね、こんな話があったね。幽霊が出ると噂の道路を掘り返してみると、その下には地下通路があった。通路は旧日本軍の重要な場所に繋がっていたとか繋がっていなかったとか。あくまで噂だけどね。つまり、そういう意味合い。知ってはいけない、見てはいけないものを、隠すために脅しをかける。そういう意味をもった心霊スポットのほうが、よっぽど怖いと思わない?」
千の言いたい事はなんとなくわかった。
見てはいけないものを見てしまう可能性がある場所に行く事は、私たちが考えている以上のリスクを負っているのかもしれない。
「うん、なんとなくわかるよ」
パタンと本を閉じて、千は鞄の中にそれをしまった。
席を立つのかと思ったけれども、そのままじっと虚空を眺めている。
「桜聖の禁忌には、なにが隠されてるのかしらね」
視線の向こうには、グラウンドの奥にある野球場が写っているんだろう。
「もし」
そう言って止めた私に、「ん?」というような視線を千は向けてきた。
きっと誤魔化されると思いながら、私は言葉を続けた。
「もし千が行ったなら、わかるんじゃないかな?」
じっと千は私の顔を見ている。
表情からは怒っているのか呆れているのか、伺い知れない。
「だって千には見えてるもの、幽霊が。そうでしょ?」
私は言い切った。
そうとしか思えない事があったし、そう信じたかった。
少し哀しい表情をして、それでも千はかぶりを振らなかった。
そして、静かに言った。
「ユーリはわたしに幽霊が見えていて欲しいみたいだけど、なんで?そんなに幽霊に居て欲しい?怖いと思わない?今このわたしたちが住んでいる世界に、自分たちには見えない何かが潜んでいるなんてさ」
「私はッ」
少し大きくなった声に口を右手で押さえ、視線をそらして続けた。
千のおさげが視界の中で上下にかすかに揺れている。
「私は、居て欲しいと思ってる。小さい時にお母さんが死んじゃって、お母さんに今の私を見て欲しいって思うから。お盆には送り迎えをちゃんとするし、お墓にもちゃんと参ってる。でも、姿は写真でしか見た事がない。だから心配なの。お母さんは私を見てくれてるのか。ちゃんと見守ってくれてるのか。私には『見え』ないから」
私のお母さんは、私を生んだ時に無理をしたらしくその時に亡くなった。
お父さんは私を生むのを反対したらしいけれど、お母さんは絶対に生むんだってきかなかったらしい。
写真の中のお母さんはいつも微笑んでいて、優しい笑顔をしている。
私は心配だった。
なによりも、私を生んだ事をお母さんが後悔して死んだじゃないかという事が。
お父さんみたいに私を恨んでいるんじゃないかって。
幽霊がいるなら、お母さんと会ってみたい、話をしてみたい。
自分を殺した私を愛してるか聞いて、生んで後悔していないと言って欲しい。
そんな事を強く願う気持ちを持って、私はオカルトに嵌っていった。
幽霊に興味があるというよりは、私はただそれがあって欲しいと願っているだけなんだと、改めて思う。
「見える事はおかしい事じゃないと思う。だってそこに居るとしたら、見える人が居たっておかしくないもの。居ないものが見えるならおかしいけど、千は私たちには見えないけどそこに居るものを見てるんだよ。それは全然おかしい事じゃない。ちょっと私たちより視力が良いとか、それだけの話だと思う」
千に認めて欲しい。
そして私にだけでも打ち明けて欲しい。
私はそれを受け止めてあげられるから。
そう思って必死に伝えた。
「ありがとう」
小さく微笑むと、千は鞄を掴むと立ち上がった。
「先、行くね」
彼女は向こうのクラスメイトたちに軽く手をあげて挨拶しつつ、歩き出した。
取り残されたように、私は千を見つめ続ける。
教室を出ていく背を見送り、私も鞄を手に席を立った。
お喋りを続けているクラスメイトたちは私を見向きもしない。
いつもの事だから気にならないけど。
「そういえば、屋上にもなんか最近女の幽霊出るとかー!」
「まじ?去年自殺した子の幽霊だったりして?うわ、怖っ」
結局は伝わらなかった、という思いが胸に残る。
幽霊がいれば良いという気持ちだけが先走ってしまった、今になってそう思う。
『幽霊はいるんでしょう?』と千に詰め寄っていただけでしかないような気がする。
失敗した。
気付くと、私は屋上に立っていた。
さっきクラスメイトが何か言っていたからかもしれない。
もう千は私と話したくないかもしれない。
そんな後悔の念が、私の中を渦巻いていた。
屋上の金網を掴んで、その向こうの世界に目を向ける。
グラウンドや体育館から上がる歓声に対して、野球場は今日もひっそりと静まり返っていた。
「私にも『見え』ればいいのに」
ずっと思ってきた事だった。
『見え』れば常にいるとは思えないまでも、お盆なんかに帰ってきたお母さんを『見る』事も出来るはずだったし、千の思いも無条件でわかち合う事ができたはずだった。
『見え』れさえいれば。
気付けば金網の針金がきつく指に食い込んで、少し血が滲んでいた。
どうしてこう上手くいかないのか。
舌先でそれを舐めながら、私にはため息をつくしかなかった。
部活動参加自体が、一つの内申点になる桜聖では、放課後に教室にいる生徒は少ない。
今日は部活が休みなのか、珍しく数人の他の生徒も居残っている。
「そうそう聞いた?ほら、あの話の男子トイレ。さっきあそこに行った子がいたんだって」
「聞いた聞いたー。怖いものみたさ?ばっかよねー私らでも近づかないのにね、あそこ」
「そうそう。さわらぬ神に祟りなしってやつ?嘘っぱちならまだしも、本物じゃんねあれは。やーだやだ」
そんな会話が飛び交っている。
禁忌と呼ばれているあの場所に入ったっていうなら、確かに話題に上がってもおかしくない。
私もあそこには入ろうとは思えないし、入ったらどんな目でみられるかわからない。
だから中の様子なんかも、実際には見た事がない。
私たちにとっては馴染みさえない場所なんだから。
そんな事を考えながらも、千との会話に戻る。
「心霊スポットってあるよね。よく肝試しとかで馬鹿な連中が遊びに行ったりするけど、あれ止めた方がいい。なぜなら、心霊スポットは危険だから」
前の席に座っている千は、本に目を通しながらボソボソと喋っている。
当たり前の事を言われたので、私はコクコクとうなずくしかなかった。
「なぜ危険なのか?普通なら幽霊が出るからと言うところなんだけれど、本当はもう一歩踏み込まないといけないのよ。例えばある交差点。見通しが比較的いい場所なのに、雨が降ると何故か事故が多発する。そして出てくる幽霊の目撃証言ときっかけになったような、女性の自殺事件。よくありがちな心霊スポットの話でしょ?」
私はまた少し頷いた。
見ているのか見ていないのか、千は一息ついて静かに続ける。
「人の身体に含まれている油脂分って、これアスファルトに染み込むとなかなか取れないのよ。目が粗いからね。そして、脂はこれ滑るのよ、当然ね。言いたい事わかるかしら。雨が降ると、アスファルトの奥にあった油脂分が浮き出てきて、次の被害者を生むのよ。スリップ事故としてね。幽霊でもなんでもない、物理的に事故は多発してたってわけ。もちろんきっかけとしては、最初の自殺者がいたからなんだけど」
カタンと少し椅子を動かして、居座りを直す。
「視覚的に平衡感覚を失いやすい崖なんかもあるわね。これらはつまり物理的に危険を持っている場所ってやつ。もちろんそれだけじゃない。大昔から忌むべき場所とされているところもあるしね。でも本当に一番怖いのは、理由があってそういう場所と定めたところかもしれないわね」
「そういう場所と定めたところ?ここは心霊スポットですよって決めるって事?」
よくわからなくて私は聞き返した。
「うん、そうねつまり、本来は何でもない場所を何かの理由でもって立ち入らせたくないけれども、表立ってそれを言えない理由があるから、心霊スポットというカモフラージュで巧妙に人を遠ざけている場所のこと」
「…ううん、よくわからない」
千は本のページを抑えていた右手で眼鏡の位置を直すと、小さく笑った。
「そうね、こんな話があったね。幽霊が出ると噂の道路を掘り返してみると、その下には地下通路があった。通路は旧日本軍の重要な場所に繋がっていたとか繋がっていなかったとか。あくまで噂だけどね。つまり、そういう意味合い。知ってはいけない、見てはいけないものを、隠すために脅しをかける。そういう意味をもった心霊スポットのほうが、よっぽど怖いと思わない?」
千の言いたい事はなんとなくわかった。
見てはいけないものを見てしまう可能性がある場所に行く事は、私たちが考えている以上のリスクを負っているのかもしれない。
「うん、なんとなくわかるよ」
パタンと本を閉じて、千は鞄の中にそれをしまった。
席を立つのかと思ったけれども、そのままじっと虚空を眺めている。
「桜聖の禁忌には、なにが隠されてるのかしらね」
視線の向こうには、グラウンドの奥にある野球場が写っているんだろう。
「もし」
そう言って止めた私に、「ん?」というような視線を千は向けてきた。
きっと誤魔化されると思いながら、私は言葉を続けた。
「もし千が行ったなら、わかるんじゃないかな?」
じっと千は私の顔を見ている。
表情からは怒っているのか呆れているのか、伺い知れない。
「だって千には見えてるもの、幽霊が。そうでしょ?」
私は言い切った。
そうとしか思えない事があったし、そう信じたかった。
少し哀しい表情をして、それでも千はかぶりを振らなかった。
そして、静かに言った。
「ユーリはわたしに幽霊が見えていて欲しいみたいだけど、なんで?そんなに幽霊に居て欲しい?怖いと思わない?今このわたしたちが住んでいる世界に、自分たちには見えない何かが潜んでいるなんてさ」
「私はッ」
少し大きくなった声に口を右手で押さえ、視線をそらして続けた。
千のおさげが視界の中で上下にかすかに揺れている。
「私は、居て欲しいと思ってる。小さい時にお母さんが死んじゃって、お母さんに今の私を見て欲しいって思うから。お盆には送り迎えをちゃんとするし、お墓にもちゃんと参ってる。でも、姿は写真でしか見た事がない。だから心配なの。お母さんは私を見てくれてるのか。ちゃんと見守ってくれてるのか。私には『見え』ないから」
私のお母さんは、私を生んだ時に無理をしたらしくその時に亡くなった。
お父さんは私を生むのを反対したらしいけれど、お母さんは絶対に生むんだってきかなかったらしい。
写真の中のお母さんはいつも微笑んでいて、優しい笑顔をしている。
私は心配だった。
なによりも、私を生んだ事をお母さんが後悔して死んだじゃないかという事が。
お父さんみたいに私を恨んでいるんじゃないかって。
幽霊がいるなら、お母さんと会ってみたい、話をしてみたい。
自分を殺した私を愛してるか聞いて、生んで後悔していないと言って欲しい。
そんな事を強く願う気持ちを持って、私はオカルトに嵌っていった。
幽霊に興味があるというよりは、私はただそれがあって欲しいと願っているだけなんだと、改めて思う。
「見える事はおかしい事じゃないと思う。だってそこに居るとしたら、見える人が居たっておかしくないもの。居ないものが見えるならおかしいけど、千は私たちには見えないけどそこに居るものを見てるんだよ。それは全然おかしい事じゃない。ちょっと私たちより視力が良いとか、それだけの話だと思う」
千に認めて欲しい。
そして私にだけでも打ち明けて欲しい。
私はそれを受け止めてあげられるから。
そう思って必死に伝えた。
「ありがとう」
小さく微笑むと、千は鞄を掴むと立ち上がった。
「先、行くね」
彼女は向こうのクラスメイトたちに軽く手をあげて挨拶しつつ、歩き出した。
取り残されたように、私は千を見つめ続ける。
教室を出ていく背を見送り、私も鞄を手に席を立った。
お喋りを続けているクラスメイトたちは私を見向きもしない。
いつもの事だから気にならないけど。
「そういえば、屋上にもなんか最近女の幽霊出るとかー!」
「まじ?去年自殺した子の幽霊だったりして?うわ、怖っ」
結局は伝わらなかった、という思いが胸に残る。
幽霊がいれば良いという気持ちだけが先走ってしまった、今になってそう思う。
『幽霊はいるんでしょう?』と千に詰め寄っていただけでしかないような気がする。
失敗した。
気付くと、私は屋上に立っていた。
さっきクラスメイトが何か言っていたからかもしれない。
もう千は私と話したくないかもしれない。
そんな後悔の念が、私の中を渦巻いていた。
屋上の金網を掴んで、その向こうの世界に目を向ける。
グラウンドや体育館から上がる歓声に対して、野球場は今日もひっそりと静まり返っていた。
「私にも『見え』ればいいのに」
ずっと思ってきた事だった。
『見え』れば常にいるとは思えないまでも、お盆なんかに帰ってきたお母さんを『見る』事も出来るはずだったし、千の思いも無条件でわかち合う事ができたはずだった。
『見え』れさえいれば。
気付けば金網の針金がきつく指に食い込んで、少し血が滲んでいた。
どうしてこう上手くいかないのか。
舌先でそれを舐めながら、私にはため息をつくしかなかった。
オカルト研究会は6月半ばの文化祭であるものを発表しようとしているらしい。
わたしの通う桜聖学園には、学園の禁忌と呼ばれている、ようするに7不思議のような話がある。
そんなものただの噂でしかあり得ないと言えばそれだけの話なのだけれども、それが学園の特異な場所で起こる怪異とあって、学生の中では真実味を帯びた逸話として語り継がれているというわけだ。
怪異が先にあったのか、それとも逆なのかはわからないけれども、広い学園の敷地に存在するその場所は異物とも思える雰囲気を漂わせている。
オカルト研究会の発表しようとしているものは、つまりその禁忌の真実というものらしい。
「ずばり言うわよ。幾島、あんたオカ研入りなさい」
「………いやよ」
一応の先輩に当たる、皆沢佐奈美がその企画の発起人。
学園の理事会に彼女の父親が関わっているらしく、正式な調査の許可が下りたという話はしばらく前に夕里が言っていた。
裏でどんなやり取りがあったのかは想像に難くない。
そして皆沢はその件にわたしを関わらせたがっているらしい。
彼女もわたしに関しての噂は聞き及んでいるという事なんだろう。
「佐奈美先輩、もうやめようよー。千は嫌だって言ってんだから」
夕里は止めているけれどもそれで引き下がるような人じゃないのは、わたしもよく知っている。
「千もほら、ちゃんと言わなくちゃ、佐奈美先輩引かないですよ?」
「あーた、夕里!どっちの味方よ。ちゃんと会員として会長の行動を支持しなさいってば」
「私は会より友情を優先させてもらうんで、あしからず。先輩」
「な、裏切り者。クビにするわよ!」
「どーぞどーぞ、その代わりこわーい調査を佐奈美先輩頑張ってくださいね」
切り替えされた皆沢が、「ぐぅ」と喉を鳴らして口ごもる。
オカルト研究会の会長が大の怖がりなんて言っても誰が信じるかという話だけれども、これが笑ってしまう事に本当の話。
本人は意地でも認めないけれどね。
「………とりあえず」
二人がわたしに顔を向ける。
めがねをくぃと上げて、言い放つ。
「………わたしとしては、お昼くらい静かに食べたいところなんだけど」
「「はい、申し訳ありません」」
箸で突き刺した卵焼きをぱくりと口に放り込んだ。
二人もそれぞれの食事を進めるのに従事し始めたようだ。
「んで佐奈美先輩。千の話は置いておいて、あれに進展あったんじゃないんですか?」
夕里が大きめのおむすびをほおばりながら聞く。
購買部の野菜サンドに噛み付き、飲み込んでから皆沢は答えた。
「ん、そうね。幾島、あたしは諦めないからね。でも今日はもういいや。」
そう言って、ごそごそとマスコットやキーホルダーでごっちゃりした鞄から、大学ノートを取り出した。
その中の1ページを広げて見せてくれる。
・野球場脇のお手洗い
・男の呻き声
・使用禁止の札
などと、のたうった文字で書かれている。
字が汚い。
「桜聖の怪談話は二人とも知ってるよね?」
わたしも含めて話をしているらしいので、一応うなずいておいた。
当然ながら夕里もうなずいている。
「うん。でももう一度確認をかねて説明させてもらうわね」
大学ノートのどこかにしっかりと書いてあるんだろう、ペラペラとめくって読み始めた。
「何の変哲もない、敷地が広いだけがとりえの桜聖学園にある一つの噂。
『野球場横の男子トイレに入ってはいけない。入ったものは闇に囚われ二度と日を拝む事は叶わない』
噂に興味を持った生徒がある日止める級友の声も聞かずに一人、男子トイレに入っていった。一緒に入らなかった級友は、中から唸るような音を聴き震えていたが、いつまでたっても出てこない彼女を心配して、意を決して入り口まで行って中に呼びかけてみたが返事はない。男性教師を呼んで中を調べてもらったが、中に入って行った友人の姿はなかった。気付かないうちに帰ったのだろうと思ったが、自宅にも彼女の姿はなく、その後見つかる事もなかった。まさに闇に囚われてしまったように、忽然と姿を消したのだ。
今でも男子トイレからは男子生徒の呻くような声が聴こえるとか噂が絶えなくて、使用する人は当然なし。近づく生徒すら稀。ウチの上からも古い建物なので近づくなって、遠まわしな連絡が出ているだけね」
パタンと大学ノートを閉じて、皆沢はわたしたちの顔を見回した。
「と、こんな感じよね、知ってるんだろうけど。間違いや気になったとこなんかはある?」
「佐和美先輩の顔色が青いのが気になるって言えば気になるよね」
なるほど、確かに心なしか顔色が青い。
怖いくらいならこんなものに関わらなければいいと思うんだけれども、難儀な性格なのかもしれない。
「うるさいわね、そんな事聞いてないの」
大学ノートで頭をはたかれる夕里。
「………行方不明の話は本当にあったの?」
漫才に付き合うつもりもないので、わたしなりに気になったところを聞いてた。
皆沢はにやっと笑い、大学ノートをびっとわたしの方に向けた。
「そう、そこなのよ。大概のこういう話が単なる作り話で終わるのは、そこに事実を感じられないからよね。身近なところで起きた話だったなら、それはもう現実として認めざるを得ないんだけど、普通の怪談は遠いところのお話として聞いてしまう。それは話に出てくる事自体が、作り話めいているからよね。もし、中に出てくる話と一致する事実があれば、それだけ怪談の真実に近づくという事」
なるほど、確かに。
事実に伴わない話はただの虚言にしか思えないけれど、一部にでも実際にあった出来事が含まれていれば、それだけ怪談の真実味が帯びるというわけだ。
「だから、調べてみたのよ。この学園で起きた行方不明から死亡者まで、記録に残ってる分は全部ね。もし学園内で行方不明者なんかが出た事実があったとしたら、記録に残っていないわけがないからね。調べて出てきたのは、近くじゃ去年の死亡者1人だけ。行方不明者を含めても記録に残ってる分じゃ、部活の事故死とかで含めて数人ってとこ」
わたしは無言で箸を置いた。
「つまり、行方不明が出たって話はないって事か。噂はあくまで噂の域を出ないって事なのかな」
夕里が少し落胆したようにため息をつく。
「まだ甘いわよ、夕里。記録に残したくない事実っていうのもあるのを忘れちゃいけないのよ。実際、閉鎖的な私立学校なんかで学内の事故を秘密裏に処理するようなところもあるわけだからね。書面って記録に残っていない可能性もある。で、お爺様に聞いてみたのよ」
「元理事会のおじいさん?」
「そ。隠居して少しボケが始まってるのが心配だったんだけど、昔の事はよく覚えてるからさ。ちょっとカマかけて聞いてみたのよ。そしたら、一つだけ記録に書いてなかった話が出てきたの。結構昔なんだけど、神隠しがあったんだって言うのよ。機嫌よく話してたのに、その話を口にした途端に、少し体調が悪いからもう帰れって。自分から言い出したのによ?あれは絶対何かあるなって思ったわよ」
なんだか少し面白い話になってきたなと思う。
わたしはまだちょっと残っている弁当箱を閉じて、皆沢の話に耳を傾けた。
「神隠しっていうと、つまり行方不明って事よね?」
「うん。昔は行方不明をみんな神隠しと言って終わらせる事が多かったらしいわね。神様にさらわれたのなら仕方ないって諦められるからかどーだか、あたしは知らないけどね。お爺様が思い出して、まずいと感じたような神隠しが、以前この学園であったっていう事は確かなようなのよ、だから」
「………事実があるなら、その原因を探れ?」
「そういう事」
片目をつむってウィンクする皆沢へは無反応に、それでも少し興味は持った。
面白いじゃないかと思う。
手品の消失トリックに文字通り、トリック・種があるように、現実で人1人を消すなんて事はあり得ない。
簡単に人の身体が消えるというなら、世の中の殺人犯の皆さんは大助かりだ。
何が難しいって、必ず出てきてしまう死体をどう見つからないように隠すかが、一番難しいのだから。
わたしから言わせて貰ったら、もし人が一人消えた事実があるなら、そこには何かがある。
物理的な何か、錯覚的な何か。
「つまり頼みたい事っていうのは、もしかして………」
「行ってきなさい」
「えーと、その。この例の場所に?」
「行ってきなさい」
夕里の青ざめた顔に容赦なく命令する皆沢に、わたしは聞いてみた。
「………ねえ皆沢、あんた幽霊信じてる?」
いつもされるのとは逆の形というやつだ。
「なによ幾島、いきなりね。そうね………あたしは正直いたら怖いと思う。死んだ後にまでこんな風に生きてなきゃいけないって考えたくないっていうのか………変な話だけどね。いて欲しくないのよ、あたしの安心の為にね。だからまだわからない。わかるのは死ぬときかもしんないけどね。あたしにとっちゃ、信じる信じない以前の問題なのよ」
あたしは少し意外な表情を浮かべていた。
怖がりでミーハーのオカルトマニアだとだけ思っていた皆沢の意外な一面というやつを垣間見たからか。
彼女も多少なりの興奮を抑えきれていないからだろう、こんな話をするのは。
普段の彼女からは考えられない。
だからこそ、本当の考えだとも言える。
「………手伝うわ。興味わいた」
それだけ言っておいて、めがねの位置をくぃと直した。
「え?」
「まじ?」
「………手伝うって言ったのよ。会員にはならないけど、その話に関しては手伝ってあげる」
急な展開についてこれていない二人を残して、わたしは弁当箱を再び開けて、残りの食材に箸をつける。
「………それと」
残してあった一口ハンバーグを箸で切りながら続けた。
「………わたし見えないからね」
わたしの通う桜聖学園には、学園の禁忌と呼ばれている、ようするに7不思議のような話がある。
そんなものただの噂でしかあり得ないと言えばそれだけの話なのだけれども、それが学園の特異な場所で起こる怪異とあって、学生の中では真実味を帯びた逸話として語り継がれているというわけだ。
怪異が先にあったのか、それとも逆なのかはわからないけれども、広い学園の敷地に存在するその場所は異物とも思える雰囲気を漂わせている。
オカルト研究会の発表しようとしているものは、つまりその禁忌の真実というものらしい。
「ずばり言うわよ。幾島、あんたオカ研入りなさい」
「………いやよ」
一応の先輩に当たる、皆沢佐奈美がその企画の発起人。
学園の理事会に彼女の父親が関わっているらしく、正式な調査の許可が下りたという話はしばらく前に夕里が言っていた。
裏でどんなやり取りがあったのかは想像に難くない。
そして皆沢はその件にわたしを関わらせたがっているらしい。
彼女もわたしに関しての噂は聞き及んでいるという事なんだろう。
「佐奈美先輩、もうやめようよー。千は嫌だって言ってんだから」
夕里は止めているけれどもそれで引き下がるような人じゃないのは、わたしもよく知っている。
「千もほら、ちゃんと言わなくちゃ、佐奈美先輩引かないですよ?」
「あーた、夕里!どっちの味方よ。ちゃんと会員として会長の行動を支持しなさいってば」
「私は会より友情を優先させてもらうんで、あしからず。先輩」
「な、裏切り者。クビにするわよ!」
「どーぞどーぞ、その代わりこわーい調査を佐奈美先輩頑張ってくださいね」
切り替えされた皆沢が、「ぐぅ」と喉を鳴らして口ごもる。
オカルト研究会の会長が大の怖がりなんて言っても誰が信じるかという話だけれども、これが笑ってしまう事に本当の話。
本人は意地でも認めないけれどね。
「………とりあえず」
二人がわたしに顔を向ける。
めがねをくぃと上げて、言い放つ。
「………わたしとしては、お昼くらい静かに食べたいところなんだけど」
「「はい、申し訳ありません」」
箸で突き刺した卵焼きをぱくりと口に放り込んだ。
二人もそれぞれの食事を進めるのに従事し始めたようだ。
「んで佐奈美先輩。千の話は置いておいて、あれに進展あったんじゃないんですか?」
夕里が大きめのおむすびをほおばりながら聞く。
購買部の野菜サンドに噛み付き、飲み込んでから皆沢は答えた。
「ん、そうね。幾島、あたしは諦めないからね。でも今日はもういいや。」
そう言って、ごそごそとマスコットやキーホルダーでごっちゃりした鞄から、大学ノートを取り出した。
その中の1ページを広げて見せてくれる。
・野球場脇のお手洗い
・男の呻き声
・使用禁止の札
などと、のたうった文字で書かれている。
字が汚い。
「桜聖の怪談話は二人とも知ってるよね?」
わたしも含めて話をしているらしいので、一応うなずいておいた。
当然ながら夕里もうなずいている。
「うん。でももう一度確認をかねて説明させてもらうわね」
大学ノートのどこかにしっかりと書いてあるんだろう、ペラペラとめくって読み始めた。
「何の変哲もない、敷地が広いだけがとりえの桜聖学園にある一つの噂。
『野球場横の男子トイレに入ってはいけない。入ったものは闇に囚われ二度と日を拝む事は叶わない』
噂に興味を持った生徒がある日止める級友の声も聞かずに一人、男子トイレに入っていった。一緒に入らなかった級友は、中から唸るような音を聴き震えていたが、いつまでたっても出てこない彼女を心配して、意を決して入り口まで行って中に呼びかけてみたが返事はない。男性教師を呼んで中を調べてもらったが、中に入って行った友人の姿はなかった。気付かないうちに帰ったのだろうと思ったが、自宅にも彼女の姿はなく、その後見つかる事もなかった。まさに闇に囚われてしまったように、忽然と姿を消したのだ。
今でも男子トイレからは男子生徒の呻くような声が聴こえるとか噂が絶えなくて、使用する人は当然なし。近づく生徒すら稀。ウチの上からも古い建物なので近づくなって、遠まわしな連絡が出ているだけね」
パタンと大学ノートを閉じて、皆沢はわたしたちの顔を見回した。
「と、こんな感じよね、知ってるんだろうけど。間違いや気になったとこなんかはある?」
「佐和美先輩の顔色が青いのが気になるって言えば気になるよね」
なるほど、確かに心なしか顔色が青い。
怖いくらいならこんなものに関わらなければいいと思うんだけれども、難儀な性格なのかもしれない。
「うるさいわね、そんな事聞いてないの」
大学ノートで頭をはたかれる夕里。
「………行方不明の話は本当にあったの?」
漫才に付き合うつもりもないので、わたしなりに気になったところを聞いてた。
皆沢はにやっと笑い、大学ノートをびっとわたしの方に向けた。
「そう、そこなのよ。大概のこういう話が単なる作り話で終わるのは、そこに事実を感じられないからよね。身近なところで起きた話だったなら、それはもう現実として認めざるを得ないんだけど、普通の怪談は遠いところのお話として聞いてしまう。それは話に出てくる事自体が、作り話めいているからよね。もし、中に出てくる話と一致する事実があれば、それだけ怪談の真実に近づくという事」
なるほど、確かに。
事実に伴わない話はただの虚言にしか思えないけれど、一部にでも実際にあった出来事が含まれていれば、それだけ怪談の真実味が帯びるというわけだ。
「だから、調べてみたのよ。この学園で起きた行方不明から死亡者まで、記録に残ってる分は全部ね。もし学園内で行方不明者なんかが出た事実があったとしたら、記録に残っていないわけがないからね。調べて出てきたのは、近くじゃ去年の死亡者1人だけ。行方不明者を含めても記録に残ってる分じゃ、部活の事故死とかで含めて数人ってとこ」
わたしは無言で箸を置いた。
「つまり、行方不明が出たって話はないって事か。噂はあくまで噂の域を出ないって事なのかな」
夕里が少し落胆したようにため息をつく。
「まだ甘いわよ、夕里。記録に残したくない事実っていうのもあるのを忘れちゃいけないのよ。実際、閉鎖的な私立学校なんかで学内の事故を秘密裏に処理するようなところもあるわけだからね。書面って記録に残っていない可能性もある。で、お爺様に聞いてみたのよ」
「元理事会のおじいさん?」
「そ。隠居して少しボケが始まってるのが心配だったんだけど、昔の事はよく覚えてるからさ。ちょっとカマかけて聞いてみたのよ。そしたら、一つだけ記録に書いてなかった話が出てきたの。結構昔なんだけど、神隠しがあったんだって言うのよ。機嫌よく話してたのに、その話を口にした途端に、少し体調が悪いからもう帰れって。自分から言い出したのによ?あれは絶対何かあるなって思ったわよ」
なんだか少し面白い話になってきたなと思う。
わたしはまだちょっと残っている弁当箱を閉じて、皆沢の話に耳を傾けた。
「神隠しっていうと、つまり行方不明って事よね?」
「うん。昔は行方不明をみんな神隠しと言って終わらせる事が多かったらしいわね。神様にさらわれたのなら仕方ないって諦められるからかどーだか、あたしは知らないけどね。お爺様が思い出して、まずいと感じたような神隠しが、以前この学園であったっていう事は確かなようなのよ、だから」
「………事実があるなら、その原因を探れ?」
「そういう事」
片目をつむってウィンクする皆沢へは無反応に、それでも少し興味は持った。
面白いじゃないかと思う。
手品の消失トリックに文字通り、トリック・種があるように、現実で人1人を消すなんて事はあり得ない。
簡単に人の身体が消えるというなら、世の中の殺人犯の皆さんは大助かりだ。
何が難しいって、必ず出てきてしまう死体をどう見つからないように隠すかが、一番難しいのだから。
わたしから言わせて貰ったら、もし人が一人消えた事実があるなら、そこには何かがある。
物理的な何か、錯覚的な何か。
「つまり頼みたい事っていうのは、もしかして………」
「行ってきなさい」
「えーと、その。この例の場所に?」
「行ってきなさい」
夕里の青ざめた顔に容赦なく命令する皆沢に、わたしは聞いてみた。
「………ねえ皆沢、あんた幽霊信じてる?」
いつもされるのとは逆の形というやつだ。
「なによ幾島、いきなりね。そうね………あたしは正直いたら怖いと思う。死んだ後にまでこんな風に生きてなきゃいけないって考えたくないっていうのか………変な話だけどね。いて欲しくないのよ、あたしの安心の為にね。だからまだわからない。わかるのは死ぬときかもしんないけどね。あたしにとっちゃ、信じる信じない以前の問題なのよ」
あたしは少し意外な表情を浮かべていた。
怖がりでミーハーのオカルトマニアだとだけ思っていた皆沢の意外な一面というやつを垣間見たからか。
彼女も多少なりの興奮を抑えきれていないからだろう、こんな話をするのは。
普段の彼女からは考えられない。
だからこそ、本当の考えだとも言える。
「………手伝うわ。興味わいた」
それだけ言っておいて、めがねの位置をくぃと直した。
「え?」
「まじ?」
「………手伝うって言ったのよ。会員にはならないけど、その話に関しては手伝ってあげる」
急な展開についてこれていない二人を残して、わたしは弁当箱を再び開けて、残りの食材に箸をつける。
「………それと」
残してあった一口ハンバーグを箸で切りながら続けた。
「………わたし見えないからね」
「夕里」
私は不意にかけられた呼び声に足を止めた。
周りには同じような登校中の学生の姿が溢れかえっていて、誰に声をかけられたのかまではわからない。
「こっちよ夕里」
歩道橋の手前に、同じ制服を着た背の高い子が軽く手を上げているのが見えた。
セミロングの茶髪が、朝日に照らされてより明るく見える。
制服も特徴の赤いスカーフをつけずに、それとなく着崩している。
完全な校則違反だけれど、彼女だけ目を瞑って貰っている感じがあるのは、全校生徒承知の上の話。
「佐奈美先輩。おはよー、珍しいね」
皆沢佐奈美。
2年生の私にとっては部活の先輩にあたる人だ。
とは言っても、堅苦しいのが嫌いなこの人は敬語を使う事を許してくれない。
その方が私としても楽なんだけれども。
「おはよ、夕里」
閉じられたように細い目、どことなく苦笑めいた口元。
あっけらかんとして、悪い意味でマイペース。
周りを振り回す事に長けている、そんな先輩だ。
今日は少し顔色が悪い。
「幾島は一緒じゃないんだ」
何か探しているようにキョロキョロしていると思ったら、佐奈美先輩はそう言った。
「千は朝早いの。私にはとっても無理だよ」
「あはは!夕里は朝弱いもんなー。あたしも人の事言えたもんじゃないけどサ!」
そう言ってへらへらと笑い、さっさと歩道橋をのぼっていく。
置いていかれないよう私も背中を追いかける。
「で。何、用事あるの?」
歩道橋をのぼった所で、私はその背中に聞いてみた。
佐奈美先輩が普段寄り付かない歩道橋のところで待っている時は、何かしらやっかいな用事を持ってくる事が多かったりする。
殆どが私も属しているオカルト研がらみだけれども。
ちなみに佐奈美先輩が会長で会員は私だけ。
「あーわかる?」
バツが悪そうに顔だけ振り向いて、彼女は笑う。
「いつもの事だから」
私は淡々と返す。
毎度のやりとりだ。
歩道橋を渡りきったところで、ようやく彼女は歩みを緩めた。
横に並んだ私に笑いかけるて続ける。
「ちょっと頼みたい事あってねー。『例の件』に少し進展あったのよ。詳しくはお昼に話すから、昼休みに夕里んとこの教室でいい?あたし学食でなんか買ってくから」
そう言いながら頭の後ろをぽりぽりと掻いた。
後ろめたい事を頼む時の佐奈美先輩の癖だ。
前に教室に飛び込んできて、部室のゴキブリ退治を頼まれた時と同じだ。
「嫌だって言ってもくるんでしょ?いいよ。今日はお弁当なんで教室いると思うし」
頼まれ事はいい予感がしなかったけれども、『例の件』に関しては別。
興味のある事のためなら、苦い経験もなんのそのってやつよ。
「あと、幾島に聞いてくれた?」
「ん、だめだって」
話は変わって、私の友人・幾島千に対しての事。
千を研究会に勧誘するよう頼まれていたんだけれど、彼女には思いっきり突っぱねられていた。
『千。オカ研に興味ないです?』
『………ない』
『皆沢さんも是非って言ってるんですけど』
『………別の人に言いなさいって言って』
『ほーい。わっかりましたー』
こんな感じ。
もう取り付く島もない感じ。
まあ、絶対入らないだろうなとは思ってたけど。
千はオカルトだけでなく色んな知識には富んでるし、私の話にも付き合ってくれるけれど、あまりそういう話が好きじゃないっていうのはわかっていたから。
「あらら、幾島も頑固ねー。今度あたしも言ってみるから、折り見てまた頼んでみて」
「わっかりましたー。多分入らないと思うけどね?」
「いいのよ。勧誘する事に意義があるとは言わないけど、やらなきゃ0なんだし!」
そう言って拳を固める佐奈美先輩には悪いけれど、私はもう頼む気はなかった。
あんまりしつこく言うと、千は私から離れて行ってしまう気がするから。
私との距離は、今くらいが丁度いいんだと思う。
「幾島のあの知識は活かさないと絶対もったいないのよね。それにあいつ」
そう言って私に顔を近づけると続けた。
「あいつ、見えてるらしいじゃない?」
ああ、噂は1年生だけに留まらず、2年生にまで広まっているらしい。
「でも昨日、幽霊なんて目の錯覚だって言ってたよ」
「そりゃ、見えるやつが『自分、幽霊見えます!』なんて主張できるのはテレビ画面の中だけの話ってものよ。実際見えてる人なんかは出来るだけそれを知られないようにひっそりとやってるもんよ。普通そんな事言われたら、怪しまれるか遠目に見られるかってとこでしょ?番組の中じゃヒーローでも、日常じゃただの変人扱いよ。わざわざ自分から変人扱いされに行くなんて、普通はしないでしょ」
「確かにそうだけどねー」
実際のところはわからないけれど、千には確かにそんな噂が立っている。
誰もいない教室で、誰かと話しているように喋っていたとか。
それだけなら、ただの奇行とだけ言えばいいのだけれどそれだけじゃ終わらなかった。
帰り道にある『出る』と噂の道路で一人で喋っていたという話が出てきたたところから、彼女が『見える』んじゃないかという噂になっていったみたいだ。
実際昨日の帰り道のその場所で、私も様子に変なものを感じたのは確かなんだけれども。
それでもよくわからない。
千自身が、幽霊を思いっきり否定しているのを聞いてしまったからかもしれないけれど。
「というわけで、今日ついでに幾島を勧誘しちゃうからフォローよろしく」
「えぇー!まぢ?」
「そんな嬉しそうな顔やめやめ。まじよ、まじ。」
嫌そうな顔をしたはずの私を見て、佐奈美先輩はからから笑う。
この人を止めるのは教師にも無理なのだから、私に止められるはずもなく。
『例の話』の進展への愉しみと、性質の悪い暴れ馬の手綱を持たないといけない憂鬱。
複雑な気持ちのまま、とりあえず今日の午前授業は集中できないだろうなとだけ思った。
「夕里、幽霊はいるのかねー」
「幽霊が怖い人には見えるんじゃないの?」
「………それ何かの当てつけ?」
私は不意にかけられた呼び声に足を止めた。
周りには同じような登校中の学生の姿が溢れかえっていて、誰に声をかけられたのかまではわからない。
「こっちよ夕里」
歩道橋の手前に、同じ制服を着た背の高い子が軽く手を上げているのが見えた。
セミロングの茶髪が、朝日に照らされてより明るく見える。
制服も特徴の赤いスカーフをつけずに、それとなく着崩している。
完全な校則違反だけれど、彼女だけ目を瞑って貰っている感じがあるのは、全校生徒承知の上の話。
「佐奈美先輩。おはよー、珍しいね」
皆沢佐奈美。
2年生の私にとっては部活の先輩にあたる人だ。
とは言っても、堅苦しいのが嫌いなこの人は敬語を使う事を許してくれない。
その方が私としても楽なんだけれども。
「おはよ、夕里」
閉じられたように細い目、どことなく苦笑めいた口元。
あっけらかんとして、悪い意味でマイペース。
周りを振り回す事に長けている、そんな先輩だ。
今日は少し顔色が悪い。
「幾島は一緒じゃないんだ」
何か探しているようにキョロキョロしていると思ったら、佐奈美先輩はそう言った。
「千は朝早いの。私にはとっても無理だよ」
「あはは!夕里は朝弱いもんなー。あたしも人の事言えたもんじゃないけどサ!」
そう言ってへらへらと笑い、さっさと歩道橋をのぼっていく。
置いていかれないよう私も背中を追いかける。
「で。何、用事あるの?」
歩道橋をのぼった所で、私はその背中に聞いてみた。
佐奈美先輩が普段寄り付かない歩道橋のところで待っている時は、何かしらやっかいな用事を持ってくる事が多かったりする。
殆どが私も属しているオカルト研がらみだけれども。
ちなみに佐奈美先輩が会長で会員は私だけ。
「あーわかる?」
バツが悪そうに顔だけ振り向いて、彼女は笑う。
「いつもの事だから」
私は淡々と返す。
毎度のやりとりだ。
歩道橋を渡りきったところで、ようやく彼女は歩みを緩めた。
横に並んだ私に笑いかけるて続ける。
「ちょっと頼みたい事あってねー。『例の件』に少し進展あったのよ。詳しくはお昼に話すから、昼休みに夕里んとこの教室でいい?あたし学食でなんか買ってくから」
そう言いながら頭の後ろをぽりぽりと掻いた。
後ろめたい事を頼む時の佐奈美先輩の癖だ。
前に教室に飛び込んできて、部室のゴキブリ退治を頼まれた時と同じだ。
「嫌だって言ってもくるんでしょ?いいよ。今日はお弁当なんで教室いると思うし」
頼まれ事はいい予感がしなかったけれども、『例の件』に関しては別。
興味のある事のためなら、苦い経験もなんのそのってやつよ。
「あと、幾島に聞いてくれた?」
「ん、だめだって」
話は変わって、私の友人・幾島千に対しての事。
千を研究会に勧誘するよう頼まれていたんだけれど、彼女には思いっきり突っぱねられていた。
『千。オカ研に興味ないです?』
『………ない』
『皆沢さんも是非って言ってるんですけど』
『………別の人に言いなさいって言って』
『ほーい。わっかりましたー』
こんな感じ。
もう取り付く島もない感じ。
まあ、絶対入らないだろうなとは思ってたけど。
千はオカルトだけでなく色んな知識には富んでるし、私の話にも付き合ってくれるけれど、あまりそういう話が好きじゃないっていうのはわかっていたから。
「あらら、幾島も頑固ねー。今度あたしも言ってみるから、折り見てまた頼んでみて」
「わっかりましたー。多分入らないと思うけどね?」
「いいのよ。勧誘する事に意義があるとは言わないけど、やらなきゃ0なんだし!」
そう言って拳を固める佐奈美先輩には悪いけれど、私はもう頼む気はなかった。
あんまりしつこく言うと、千は私から離れて行ってしまう気がするから。
私との距離は、今くらいが丁度いいんだと思う。
「幾島のあの知識は活かさないと絶対もったいないのよね。それにあいつ」
そう言って私に顔を近づけると続けた。
「あいつ、見えてるらしいじゃない?」
ああ、噂は1年生だけに留まらず、2年生にまで広まっているらしい。
「でも昨日、幽霊なんて目の錯覚だって言ってたよ」
「そりゃ、見えるやつが『自分、幽霊見えます!』なんて主張できるのはテレビ画面の中だけの話ってものよ。実際見えてる人なんかは出来るだけそれを知られないようにひっそりとやってるもんよ。普通そんな事言われたら、怪しまれるか遠目に見られるかってとこでしょ?番組の中じゃヒーローでも、日常じゃただの変人扱いよ。わざわざ自分から変人扱いされに行くなんて、普通はしないでしょ」
「確かにそうだけどねー」
実際のところはわからないけれど、千には確かにそんな噂が立っている。
誰もいない教室で、誰かと話しているように喋っていたとか。
それだけなら、ただの奇行とだけ言えばいいのだけれどそれだけじゃ終わらなかった。
帰り道にある『出る』と噂の道路で一人で喋っていたという話が出てきたたところから、彼女が『見える』んじゃないかという噂になっていったみたいだ。
実際昨日の帰り道のその場所で、私も様子に変なものを感じたのは確かなんだけれども。
それでもよくわからない。
千自身が、幽霊を思いっきり否定しているのを聞いてしまったからかもしれないけれど。
「というわけで、今日ついでに幾島を勧誘しちゃうからフォローよろしく」
「えぇー!まぢ?」
「そんな嬉しそうな顔やめやめ。まじよ、まじ。」
嫌そうな顔をしたはずの私を見て、佐奈美先輩はからから笑う。
この人を止めるのは教師にも無理なのだから、私に止められるはずもなく。
『例の話』の進展への愉しみと、性質の悪い暴れ馬の手綱を持たないといけない憂鬱。
複雑な気持ちのまま、とりあえず今日の午前授業は集中できないだろうなとだけ思った。
「夕里、幽霊はいるのかねー」
「幽霊が怖い人には見えるんじゃないの?」
「………それ何かの当てつけ?」


